北海道の軟石文化をご紹介します。

 これまで札幌軟石文化を語る会では、10年ほど前から札幌市内の軟石造の建物や工作物を調べる「札幌軟石発掘大作戦」を札幌建築鑑賞会と合同で行ってきました。

この活動を通じて、まちの中にある札幌軟石の建物を素早く見定める“軟石眼”が磨かれてきました。

それと同時に、北海道内には札幌軟石以外にも軟石が数多くあることも分かってきました。

ここ数年、札幌軟石以外の石材についても色々と調べてきましたが、札幌軟石ファンの皆様にもその成果の一部をご紹介し、より軟石の魅力を楽しんで頂きたいと思っております。

なお、私たちは地質、歴史、建築の専門家ではありませんので、不勉強な面も多々あると思います。お気付きになったことがあれば当会HPにお寄せください。

札幌軟石ネットワーク:佐藤俊義



1.札幌軟石

札幌市民には馴染み深い札幌市資料館(旧札幌控訴院)。札幌軟石が用いられています。

 

札幌軟石の壁面を拡大すると、下の写真(注1)のように灰色の中に白っぽい軽石が見られ ます。これは札幌軟石を見分けるヒントになります。

注1 札幌資料館の外壁ではありません。    撮影:岩本

 

 写真は、昭和30年代まで行われていた手掘りによる軟石切出しの様子です。札幌市にある藻南公園内「札幌軟石ひろば」に見られる壁面(切出し跡)は、こうした石工による手掘りの跡です。

写真提供:地蔵 守さん(札幌市在住)

 

札幌軟石は、現在も札幌市南区常盤にある辻石材工業㈱の採掘場で産出されています。


2.美瑛軟石

美瑛軟石の企業化は、明治39年、美瑛川北岸にある石山の採掘場からはじまりました(注2)

注2:美瑛町史(昭和34年発行)

下図:日本地図体系 東北・北海(昭和33測)

 

下の写真は美瑛軟石の採掘場跡です。現在は採掘されていません。

写真:2015年 7月撮影 美瑛軟石採掘場跡

 

美瑛軟石を用いた建物としては、昭和27年に建てられた美瑛駅が有名です。

ほかに、旭川や富良野など、上川地方の石蔵や倉庫にも多く用いられています。

写真:美瑛駅

 

美瑛軟石は、100万~200万年前に北海道中央部で発生した火砕流が堆積し固まった流紋岩質凝灰岩(注3)です。

灰色の札幌軟石に比べ、色調はやや明るい象牙色で、キラキラとした石英が多く含まれています。

注3 美瑛町政策調整課ホームページ

 

美瑛町では、「丘のまちびえい」の玄関口となる駅前通りとその周辺を、建築協定により建物の腰壁までを軟石用いることや、三角屋根で景観を統一する事業を平成元年から進めてきました。

写真:美瑛駅前の町並み 2015年7月撮影


3.小樽軟石

小樽市内で見られる倉庫郡に使用されている軟石は、桃内産、奥沢産、手宮産、天狗山産など、複数の産地からの石材を使用しており、総称として「小樽軟石」と呼ばれています。

現在、小樽軟石の採掘場所、石材の性質、石造建物の分布等について、小樽軟石研究会(注4)が調査を行っており、軟石の採掘や活用に関する歴史、地質学的視点による軟石層の形成史など、小樽軟石に関することが明らかになってくると思います。

注4:「小樽軟石研究会」 小樽市総合博物館が中心となり、小樽市内の軟石について調査・研究している団体

下図:小樽軟石の主な採掘場跡 (国立研究開発法人産業技術総合研究所 日本シームレス地質図を使用)

 

■桃内産の軟石

桃内産の軟石は、古くからニシン漁が盛んだった旧忍路(おしょろ)郡桃内村の海岸沿にある桃岩(写真中央)の周辺で採掘されていました。

写真  2014年11月撮影

 

地元の漁師さんに許可を得て、桃岩の間近まで行き写真を撮らせて頂きました。

写真:2014年11月

 

小樽市総合博物館学芸員の大鐘卓哉さんによると、桃内産の軟石は800万年前から1000年前の海底で噴出した火山噴出物が堆積してできた凝灰岩とのこです。

札幌軟石のように、高温の火砕流が熱で溶けて固まった(溶結した)ものとは違い、堆積してその圧力で固まったものであるため石の質はやや脆く、凍結融解にはあまり強 くない石材と言えます。

 写真:小樽市内の倉庫に用いられている軽石凝灰岩(桃内産とは限りません) 2014年6月撮影

 

また、海底でので堆積は、砂や岩は早く沈み、火山灰や軽石はゆっくり沈むという時間的な差が生じるため、縞模様(層理・葉理)が見られるのも特徴です。

下の写真は小樽市内にある旧久保商店の石蔵です。産地は分かりませんが、縞模様がはっきりと見て取れます。

 写真:旧久保商店の石蔵(桃内産とは限りません) 2014年6月撮影

 

■天狗山産の軟石

小樽軟石は、天狗山の麓に掘られた洞窟からも採掘されていました。下の写真が天狗山産の軟石の採掘場跡で、桃内産の軟石と同様に、海底火山噴出物の特徴である縞模様が見られます。

なお、採掘場の跡は個人の所有地ですので“立入りは禁止”です。

写真提供:小樽市総合博物館

 

                    小樽軟石については、まだ不明なことも多く、今後も詳しく情報を集める予定です。

 


4.登別軟石

今から8万~4万年前(注5)、クッタラ火山(現在のクッタラ湖)の活動により、大量の火砕流をはじめとする噴出物が周囲に堆積し、現在の登別周辺の地形を形成しました。

その堆積層の中で溶結し、軟石として加工に適していた層が「登別軟石」となりました。

ちなみに、溶結の度合いによって固くなったものを「登別中硬石」と呼ぶ場合もありますが、軟石と中硬石の差について、明確な規定はないようです(注6)

 注5 「道央の地形と地質」 前田寿嗣 著   ※注6 札幌市内石材店聞き取り

 

登別軟石の層は、主に周辺の海岸の切り立った崖に見られ、フンベ山を中心に、西に蘭法華岬、東にポンアヨロ川付近までの広い範囲に分布しています。

これら沿岸の採掘場では、明治時代から軟石が切出されていました。現は、下図に示す内陸部の石材会社(アオノ産資)の採石場周辺で切出されています。

下図:Google Earthを使用

 

手掘りで軟石を切出し、鉄道まで馬車で運搬していた頃の写真です。

写真:市史ふるさと登別(下巻)

 

白黒写真(左下)の撮影年代は不明ですが、昭和期の登別軟石の採石場の写真です。

カラー写真(右下)は、昭和58年頃に撮影されたものです。

写真所蔵:登別市

 

現在の登別軟石(登別中硬石)は、重機や削岩機を用いて切出されています。

写真提供:アオノ産資

 

登別市内で軟石を用いた建物としては、昭和10年に建てられた登別駅舎があります。

写真:2015年5月撮影 

 

登別軟石の壁の拡大写真です。

石の色合いは、やや紫がかった赤ですが、採掘場所や層の違いによって、灰色に近くなることもあります。

札幌軟石や小樽軟石に比べ、空隙が少なく、緻密で固めの石材であることから、間地石(石積み)や門・塀など、土木用資材としての需要が多かったようです。

 

登別軟石の採石場から、軟石を登別駅に運ぶための道は「石山通」としてその名が残されています。

ちなみに、札幌でも軟石を運搬していた道(国道230号線)は石山通と呼ばれています。

下図:ゼンリン住宅地図(登別版)

 

       登別軟石についても、まだ整理がされてない資料もあり、継続してご紹介します。

                  ※情報提供:登別市教育委員会社会教育グループ 学芸員 菅野修広 氏


5.留辺蘂軟石

北見市西部に位置する留辺蘂(るべしべ)町金華でも、大正の初期から昭和38年頃(注7)まで軟石が切出されていたそうです。

注7:「広報るべしべ:平成9年5月20日発行」 

下図:日本地図体系 東北・北海(昭和45編49修)

 

留辺蘂町金華にある採掘場跡は、JR石北線の留辺蕊駅と金華駅の間、無加川の侵食によって現れた岩面(露頭)にありました。

写真:2015年10月撮影

 

下の写真は、地元の石材店(山下石材店)が撮影した軟石の切出し作業の様子です。

撮影年時は不明ですが、同地での石材の切出しが終了する前の昭和30年代と思われます。

写真提供 北見市総務部市史編さん  斉藤幸喜氏

 

留辺蘂軟石を用いた建物としては、北見市端野町にある石倉公園内の石倉交流センター(旧端野中央産業組合倉庫)があります。

写真:石倉公園内の石倉交流センター(昭和7年建設)

 

留辺蘂軟石の壁の拡大写真です。

色合いは赤、又は錆(さび)色のかかた象牙色で、明らかに札幌軟石とは異なります。

■軟石文化を伝える取組み

 

【惜しまれつつ解体された石倉】

北見市総務部市史編さんの斉藤幸喜さんから、市内にあった旧丸玉鈴木商工の石倉(大正9年建設)が、市民に惜しまれつつ解体されるという新聞記事(注8)送って頂きました。

注8:北海道新聞網走版 平成22年11月3日

 

 

 

【屋号がモニュメントに】

記事にあった石倉は解体されましたが、丸玉の屋号の彫られた部分は、北見市が野付牛と呼ばれていた時代の記憶を伝えるモニュメントとなって残されています。

写真提供 北見市総務部市史編さん  斉藤幸喜氏

      

留辺蘂町のほか、北見市周辺では置戸町や訓子府町でも軟石を切出していたという記録も見つかっており、今後も情報を集める予定です。


6.美幌(古梅)軟石

屈斜路湖北部にある美幌町古梅地区では、約40万年前から繰返し起った屈斜路火山の噴火によって誕生した溶結凝灰岩「古梅軟石 」が採掘されていました。

 下図:国立研究開発法人産業技術総合研究所 日本シームレス地質図を使用

 

大正時代に、美幌峠の入口付近で古梅軟石を見つけ、これを企業化したのが森繁太郎と諸我宗七で、昭和の初め、石材を市街地に運び、門柱、塀、墓石などにして販売をはじめました。

また、昭和14年には美幌飛行場の基礎とするため、ハッパで石を砕き、割栗石として大量に運び出されたという記録もあります。

戦後になって、古梅軟石は加工性に富む建設石材(凝灰岩質安山岩)として本格販売され、昭和27年には北海軟石建設(株)が創立され、町内の建物に使用されるようになりました。

しかし、結露の問題等があったことから、あり多く普及することなく、建物建材としての役割は会社設立から数年で終焉を向かえることとなりました。(注9)

注9:参考「美幌町百年史」

写真①③:美幌博物館提供     写真 ② :美幌町百年史

 

美幌峠の麓にある林道を進んで行くと、林と苔に覆われた古梅軟石の採掘場跡を今も見ることができます。

写真:2014年5月撮影

 

採掘跡の壁面には、札幌軟石を切り出す際に用いる機械(チェーンソー)の跡がはっきりと見て取れます。

また、水分を含んだ古梅軟石の壁面が、うっすらと青みがかっていることも分かりました。

写真:2014年5月撮影

 

下の建物は、美幌の駅前で見つけた軟石倉庫です。

写真:2014年5月撮影

 

この倉庫が古梅軟石で建てられたものかは確認できていませんが、表面の汚れた石が欠け、石材本来の色が露出している部分を見ると、採掘場で見た薄く青みがかった軟石の表情と同じものと思われます。

さらに良く見ると、札幌軟石等の凝灰岩で見られる軽石がなく、全体的に石英が多いようにも感じられました。

写真:2014年5月撮影

 

美幌町古梅地区を流れる美幌川の支流に、「石切川」と名付けられた沢があり、この地域が軟石の産地であったことを今に伝えています。

下図:ゼンリン住宅地図(美幌版)

 

                         ※情報提供:    美幌博物館 学芸員 八重柏 誠 氏


7.網走軟石

網走市の南部、天都山中腹にある「博物館網走刑務所」内の建物に軟石がたくさん使用されています。

博物館網走監獄は、現在の「網走刑務所」の敷地内に、明治時代から建てられた歴史的な建造物を移設し、昭和58年(1983)から展示・公開している国内唯一の行刑博物館であり、平成28年2月には国の重要文化財に指定されました。

展示されている建物の多くは、木造やレンガ造の建物ですが、笠石・要石など建物の一部、また門柱や池の護岸などの工作物に軟石が使われています。

 

写真:博物館網走監獄ホームページより

注10:正門のアーチ部分は、昭和58年に札幌軟石を用いて再現されました。

 

 

写真:博物館網走監獄内 平成26年8月15日撮影

左(上)刑務所裏門・(下)裏門の最上部         右(上)煉瓦造り独居房・(下)独居房の建具金物の固定部

写真:博物館網走監獄内

門柱                                                    正門前池の護岸石

博物館網走監獄の学芸員 今野久代さんによると、監獄内の軟石が採掘されていた時期は明治中期から大正期までで、投獄されていた囚人たちによって切り出されていたとのこと。

また、軟石が採掘されていた場所については、現網走刑務所の敷地内にある職員官舎の裏山に石切場(下写真右)の跡が残っています。

 

写真提供:公益財団法人 網走監獄保存財団 博物館『網走監獄』

 

石切場跡の写真です。

壁面をよく見ると、囚人たちが刻んだ“つる目(ツルハシの跡)”が無数に残っています。

地質関しては、まだ詳しく確認はできていませんが、上層部の火山灰や岩質の脆さ、混合している岩片の状態などから、凝灰岩(非溶結)ではないかと思われます。

写真提供:公益財団法人 網走監獄保存財団 博物館『網走監獄』

≪おことわり≫

網走監獄で見られる軟石について、本ホームページでは「網走軟石」と表示していますが、そういった呼称に関する文献・資料等は確認できていません。

北海道の発展を支えた軟石の一つとして、“網走産の軟石”ということで使わせて頂きました。